TOMO's BLOG

アラサー女の美容と健康と好きなこと

父のこと

今週のお題「おとうさん」

 

副題に「今、父に贈る言葉」とあった。

 

「父のこと」というと、私はどうしても重い気持ちになる。

その気持ちと向き合う、いい機会なのかもしれない。

最終的に「父に贈る言葉」が出てくるか、現時点では分からないが…

今回は父のことに触れてみようと思う。

 

父は大手企業の営業をしていた。

暦通りの休みで、土日になるといつも家族を何処かに連れて行ってくれたり、よく遊んでくれたりもした。

周囲からはよく「アットホームで羨ましいね」なんて言われる。

今もよく言われる言葉だが、単純に嬉しかった当時とは少し感じ方が違うように思う。

 

私が社会人になるまで、父は概ね「いいお父さん」だった。

昔の交通事故の手術による輸血が原因で、C型肝炎に罹っていたが、よく酒を飲んだ。

肝炎が原因で煙草はやめたと聞いたが、私の物心ついた頃にはすでに喫煙はしていなかったから、「へー、そうなんだ」くらいの気持ちで聞いていた。

幼い時に父が怪我をして血を流した時、近づいただけで怒られたのは、感染を防ぐためだったのだと、納得したりもした。

 

「いい父」だったと思う。いや、今でも世間からすれば「いい父」なのだろう。

基本的には優しくて、少し子供っぽくて、口下手で、お酒を飲むのが大好き。

 

あれはいつのことだったか。

中学生か、高校生の時くらいだろうか。

私の両親は共働きで、以前は家に帰ってからもしっかり夕食を作っていた母も、出来合いのものを買ってくることが多くなった。

特に不満はなかった。

母の料理の方がおいしかったが、母が忙しいことも理解しているつもりだった。

 

そんな母に、父が溜息を吐いた。

出来合いのものを買ってくるたびに溜息を吐き、機嫌が悪くなった。

母が無駄遣いをしていると、責めたりもした。

よく分からなかった。私の中では「優しい父」だったから、単に機嫌が悪いだけかとも思った。

 

父は基本的には優しい人だが、あまり子供のことを褒めてくれなかったように思う。

絵を描いてみせても「ここがおかしい」「ここが間違っている」というような人だった。

また、時々変な行動をしたり、急に訳の分からないことで切れたりすることもあった。

普段は温厚な父が、理由の分からないことで急に声を荒らげて怒鳴るのは、幼心にとても怖かったのを覚えている。

私と兄二人は、無意識に「父を怒らせないように」行動していたのかもしれない。

 

だから、母の夕食のことで父の機嫌が悪くなることに、私は無意識に「触れないように」していたのかもしれない。

でも、当事者である母は大変だったことだろう。

 

それでも、(くり返しになってしまうが)私が社会人になるまで、父は概ね「いいお父さん」だった。

ただ、父のことで悩むことも増えた。

当時、いろいろと調べた結果、父はおそらく「アスペルガー症候群」なのだと思った。

 

アスペルガー症候群の特徴としては、基本的に3つの特徴があげられる。

 

①社会性

②こだわり

③コミュニケーション能力

 

父は「組織」というものが苦手だった。

今思えば、父は空気を読むのがとても苦手だから、「組織」に身をおくのは苦痛だったんだろうと思う。

そして、こだわりが異様に強かった。

自分の中のルールやルーティンがあり、それを曲げようとすると強く非難された。

口下手で、何かを言葉で表現するのが苦手だった。

おまけに余計な一言が多く、それが余計な一言だと本人には理解できていないことも多々あった。

 

父のことで悩み、症状を調べるきっかけとなったのは、最後の「余計な一言」だった。

父はよく、母の気持ちを抉るようなことを言った。

私がそれに気付いたのは(もしくは避けることをやめて向き合ったのは)、私が社会人になってからだった。

その頃には父は、ますます怒りっぽくなっていた。

父本人には全く悪気はなく、それでも母を傷つけるような責めるような苛むような一言を平気で言った。

それが、私や兄に向くことも増えた。

あの頃、母はよく泣いていたし、父はよく切れて家を出て行ったりしていた。

そして、お酒を飲む量も増えた。

 

朝7時に家を出て車で出勤するのに、夜中の3時半まで飲んでいた。

土日は午前中から飲んだ。

父はそれまで以上に怒りっぽくなった。

お酒をやめさせようとすると、怒って手が付けられなかった。

 

 

気付いた時には、「お酒好きだった父」が「アルコール依存症の父」になっていた。

それからしばらく経って、掛かり付けの病院の先生から電話が入った。

C型肝炎だった父だ。それだけお酒を飲んだらどうなるか、家族全員わかっていたはずだった。

「肝臓がんになっている」

先生からの電話を受けて、母は泣いた。私も涙が止まらなかった。

そんな父でも、やはり家族は家族だった。

病院へ連れて行って、転移もなく、ぎりぎり手術できる範囲で発見されたので、すぐに入院する事になった。

家族はみんな、手術前も手術後も、毎日お見舞いに行った。

インフルエンザが流行っていたから、みんな予防接種をして、手をアルコール除菌して、仕事を早めに切り上げて、私も兄も母も、毎日誰かがそばに付いているような状況だった。

 

結果として、父の肝臓がんは無事に切除された。

今思えば、あの頃が一番幸せだったかもしれない。

みんながただ父の心配をしていて、父もそれに応えてくれた。

一時は。

 

父は退院して暫くすると、隠れてお酒を飲むようになっていた。

車のトランクや、部屋の本棚や、お風呂場の天井裏など、あちらこちらに酒を隠しては飲んでいた。

肝臓がんになっても、アルコール依存症は治らなかった。

泣いて懇願しても駄目だった。

それどころか、父はお酒のことに触れると、切れて家を出て行っていたから、話にならなかった。

 

根気よく説得をすれば、いつかは分かってくれるかもしれない。

 

そう思っていた。

根気強く、どうにか父に分かってもらおうとしている内に、母がうつ病になった。

仕事のこともあったかもしれないが、原因の多くは父だろう。

その後、母に続いて私もうつ病になった。

正直、外で仕事をして、家で父を説得して、母をケアして、という生活はしんどかった。

 

兄と母に言われた。

「お父さんのことはもう諦めなさい」

「赤の他人と思いなさい」

それは、すごく難しいことだった。

 

結果的に、病気のことも母のこともあり、私は父のことを「諦めた」。

私は「父より母」を選び、「父より自分」を選んだ。

その時は顔を見ることも、会話をすることも、一緒に食事をとることもできなくなっていた。

父のことで悩む度、私は吐いた。

 

自分が生きるために、父のことを捨てた。

 

私は今でも、そう思っている。

 

今は普通に会話もする。食事もする。

ただ、父にお酒に関することは言わなくなった。

肝臓がんの再発率は、決して低くない。

でも、私は父を捨てた。

父が死んだら死んだで、しょうがないことなのだ。父がその道を選んだのだから。

 

私はきっと、後悔する。

肝臓がんが再発したとき、父が亡くなったとき、きっと後悔して、また泣くのだろう。

それでも、今は「父より自分」を選んだ。

だから、私は笑顔で父と話をしながらに、父を見捨ているのだ。

 

 

父に贈る言葉

昔を振り返ってみて、いま父に贈りたい言葉とはなんだろうか。

そう考えた時、ひとつの言葉しか浮かばなかった。

 

「長生きしてください」

 

安直でありきたりな言葉だが、それしか浮かばなかった。

どうか、父が一日でも長く生きてくれますように。

そしてもし、父が病で逝くことがあれば、その時は安らかでありますように。

 

私は自分の罪から逃れようとしながら、また、自分の選択に矛盾しながら、今日も笑顔を浮かべて父を見捨てるのだ。